国宝・姫路城  標高46米の姫山を中心とした平山城

春の城 夏の城  天空の白鷺 冬の城 千 姫 西の丸
大手門 菱の門 いろは門 秋の城  水ノ門 三国堀 内 濠
狭 間 石 垣 家 紋 夜桜会  城の内 武 将 クリーン作戦
大天守保存修理工事 素屋根工事 天空の白鷺  工事 動物園 明石城
H28年(2016年)観桜会  姫路城グランドオープン  白鷺城     

国宝=大天守1棟ほか各小天守を含む7棟。
重要文化財
=城内の現在建物74棟
国の特別史跡=内曲輪一帯と中曲輪の一部
世界文化遺産=1993年ユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産に登録されました

入城料 大人600円:小人(5歳〜15歳未満):200円:小学生(どんぐりカード提示)=無料

桜門橋(さくらもんはし) 平成19年

籠城の設備
天守丸:炊事が出来るように内庭に台所櫓。地階に厠の設備、食料や燃料が貯蓄されていた。
お菊井戸 切腹丸 切腹丸

お菊=永正年間(1500年頃)城主小寺則職の執権青山鉄山が主家横領の企てを、青山家の住み込みの
お菊探知→元信に知らせ城主の難を救った

鉄山は浦上村宗等の加勢で則職を追放、一時主家を横領した。
村宗等を招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は、家宝の10枚揃いの皿の一枚を隠し、
お菊を攻め殺し井戸に投げ込んだ。
その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえということです。
やがて、元信らが、鉄山一味を滅ぼした。お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内に祀られました。

2008年2月24日(日)撮影

平成20年:2008年4月5日(土)櫻満開→4月9日(水)



建造物 昭和6年1月19日及び12月14日 国宝保存法に基づき国宝に指定 (82棟)
昭和25年8月29日 文化財保護法に基づき重要文化財に指定。
昭和26年6月9日 上記のうち8棟を同法に基づき国宝に指定。
特別史跡 昭和3年9月20日 史跡名勝天然記念物保存法に基づき史跡に指定。
昭和31年11月26日 文化財保護法に基づき特別史跡に指定。

明治4年(1871年)廃藩置県が実施、さらに明治6年(1873年)の廃城令によって
日本の多くがもはや不要であるとして破却された。

姫路城は、競売に付され、
米田町に住む金物商・神戸清一郎(かんべせいいちろう)さんが
23円50銭(現在の貨幣価値約10万円)で落札。
城の古鉄、瓦を売るのが目的であったというが、
一般家庭に転用するには城の瓦は大きく重いことや
解体費用がかかりすぎとの理由で結局そのままにされ、権利消失。
その後、昭和2年(1927年)5月末、息子の神戸清吉が、
城の所有権を主張→訴訟を起こそうとしたと
報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは
訴訟する意思がないことを述べており、
又、同記事で明治7年に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている。

城跡は陣地として好適な場所であったことから、
陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。
明治7年(1874年)には姫路城三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置された。この際、
本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。
さらに明治15年(1882年)には失火で備前丸を焼失。
明治29年(1896年)姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。

明治10年(1877年)頃=明治時代初頭の大変革が一段落付いたころ
日本の城郭を保存する動きが見られ陸軍においても建築、修繕を担当していた。
中村重遠(しげとお)工兵大佐は、
明治11年(1878年”陸軍ク山縣有朋に姫路城・名古屋城の保存を
太政官に上申するよう願い出る→姫路城の修復は第一歩を踏み出す。
肝心の予算はなかなか下りず、
陸軍の予算から捻出→保存費要求額の半分にも満たない。
これによってどうにか応急的な修理を施した
→腐朽は進む→市民による白鷺城保存同盟の結成。
城下各地の有史の衆議院への陳情
→明治43年(1919年)国費9万3千円が支給→明治の大修理。
大正元年(1912年)から一般公開される。大正8年(1919年陸運省)が西の丸を修理。
後に第10連隊は岡山へ移転・第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争は終戦を迎える。

昭和の大修理
昭和9年(1934年)6月20費、西の丸渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊を契機に開始。
第1期工事=1935年〜1950年3月行われることになった。
全ての建物を一度解体してから部材を修復。
再度組み立て直す方法がとられる。先に天守以外の建物を手がけることとしたが、
昭和19年(1944年)太平洋戦争での日本の戦局悪化により余儀なくされた。
空襲の危機を免れ昭和25年(1950年)に大修理。(第2期)は再開される。
この工事は1956年3月まで行われ昭和30年までに天守以外の修理を完了した。

昭和31年(1956年)より天守大修理に着手。特に天守においては、
その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事
が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文書が発見され、
姫路城の研究に大きく役立てられた。
基礎は磁石のままでは天守の重量を支えきれないため磁石を撤去。
新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が
姫山の岩盤上に直接構築された。
このとき、羽柴秀吉が城主だったころ築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。