紋 瓦 (歴代城主の紋瓦)

歴代の城主が、修繕のたびにごとに取り替えた瓦の紋章が、屋根の上に錯雑として並んでいます
五三の桐=羽柴秀吉 天成8年(1580年〜黒田官兵衛孝高の奨めでこの地に三層の天守を築く
五七の桐=木下家定 天正13年(1585年)〜 
秀吉の室ねねの兄で、関ヶ原の戦いの後に備前中足守へ国替えになるまで16年在城した
三つ巴=松平直基(まつだいらなおもと) 慶安元年(1648年)〜 
結城秀康の四男(徳川家康の孫)姫路へ赴任の途中に死去。その後子孫が2回姫路城主になる
 
揚羽蝶(あげはちょう)=池田輝政:慶長5年(1600年〜
立葵=本多忠政 元和3年(1617年)〜
沢瀉(おもだか)=松平忠明 寛永16年(1639年)〜:
:徳川家康の長女亀姫の婿奥平信昌の三男:嫡子嗣子忠弘のとき山形へ移封
剣酸漿:けんかたばみ=酒井忠恭(さかいただずみ) 寛延2年(1749年〜 
明治維新まで10代、120年続いた城主 姫路文化の基礎を作った
剣酸漿 立葵 沢瀉
五七の桐 揚羽蝶 源氏車
源氏車=榊原忠次 
慶安2年(1649年)〜 
在城中は冶績を挙げた
名君、
二代続いたあと、
越後村上へ移封されるが、
政邦のとき再び姫路城主となる。
城主政岑(まさみね)は
江戸三浦屋の
遊女高尾を落籍して
西屋敷に住ませたという
風流な大名であった。
五三の桐 三つ巴
主な城主とできごと
時 代 城 主 西暦   できごと
鎌 倉 赤松 則村 1333 姫山に城柵をめぐらす
赤松 貞範 1346 則村の次男・貞範が姫山に築城
小寺 頼季 1349 貞範は庄山城を築き移り、小寺氏が守る
室 町 山名 持豊 1441 赤松満祐(みつすけ)を滅ぼし、播磨守護となる ※嘉吉の乱 
赤松 政則 1467 赤松氏再興。本丸、鶴見丸、亀居丸を築く  
小寺 豊職 1469 政則は置塩城を築き移る。小寺氏目代となる
黒田 重隆 1545 小寺氏らは御着城を築き移る。黒田重隆入城
1546 黒田重隆の孫黒田孝高(のちの如水)生まれる
黒田 孝高 1567 黒田孝高が、父黒田職隆(もとたか)(小寺氏首席家老)の跡を継ぐ
安土
桃山
羽柴 秀吉 1580 秀吉、織田信長の命をうけ、中国制覇に乗りだす。孝高は秀吉に姫路城を献ずる
1581 三層の天守を築く
羽柴 秀長 1583 秀吉は大阪城に移り、弟秀長、在城
木下 家定 1595 秀長は大和郡山に移る。秀吉正室(北政所:きたのまんどころ)の兄家定入城
江 戸 池田 輝政 1600 関が原合戦の軍功で、三河吉田より姫路に移る
1601 城郭大拡張工事開始
池田 利隆 1613 輝政が病死。長男利隆襲封
池田 光政 1616 光政が父利隆が跡をつぐ
本多 忠政 1617 光政は、因幡鳥取に転封。忠政が伊勢桑名より入る
1618 千姫、忠政嫡子忠刻に嫁す。化粧櫓など築造
松平 忠明 1639 従兄弟本多氏は大和郡山へ移り、忠明入る
松平 直基 1648 忠明の子、忠弘が出羽山形に転封。直基がつぐ
榊原 忠次 1649 陸奥白河より入封
本多 忠国 1682 福島より入封
榊原 政邦 1704 越後村上より入封
榊原 政岑 1732 遺領をつぐ
松平 明矩 1741 榊原家は越後高田へ移る。陸奥白河から入封
酒井 忠恭 1749 酒井氏が上野(こうずけ)前橋より入封。以降、明治維新まで
明 治 酒井 忠邦 1868 明治維新。翌年、版籍奉還となる
1873 明治6年《廃城令》→兵部省の所轄
昭 和 昭和31年 1956 昭和の大修理=大天守などの解体修理着工 8年の歳月をかけた解体復元工事 昭和39年に完了
平 成 平成5年 1993 ユネスコの世界文化遺産に指定される
平成21年 2009 秋〜26年度(大天守の漆喰壁、軒、ひさし、傷の修復工事