戦国武将

赤松規村(あかまつのりむら)1,277年〜1,350年
播磨佐用の住人、弓矢に秀でて武勇に長じていて。
通称は次郎、のちに入道して円心と号する。
1332年「元弘2・正慶1)、大塔護良親王の令旨をうけて挙兵。
上洛の途中、姫山山上にある寺に柵をめぐらせて砦に改造した。
一時的な城とし、家臣の小寺頼季に守らせる。
そして宮方として京都に攻め入り建武の中興を挙げた。
しかし、建武政府に不満を持つ。
1335年(建武2年)足利尊氏が反旗をひるがえすとこれに応じ、室町幕府樹立に尽力する。
そして播磨守護に任じられた。白旗城を居城とした規村は、1,346年(正平1・貞和2年)に、
次男の貞範に姫山に本格築城させている。
そして、小寺頼季を城代とした。1,350年(観応1年)京都で病没。

白旗城
現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松にあったと言われている山城。
赤松氏城跡の一つとして国の史跡に指定されている。
室町時代に播磨国白旗山(標高440米)に築かれ、播磨守護赤松氏の居城となる。

幸運をつかんだ戦国武将
池田輝政=1564年尾張国清洲で池田恒興の次男で生まれる〜1613)
本能寺の変で長男信忠自刃→池田家の当主になる
先妻=中川清秀の娘
糸姫(利隆を生んだ後、病で実家に戻る。
後妻=徳川家康の次女
督姫→忠継・忠雄(ただかつ)を出産 (前夫=北条氏直)

長壁神社遺跡 姫路城大天守の鯱瓦

今の姫路城
慶長6年(1601年)から8年かけて池田輝政が建てました。
最初に建てたのは赤松則村の次男貞則です。
当時播磨国上郡で勢力を誇っていた父則村は、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇に加勢し、
1,200騎の兵を姫山に山城を築きました。
これが姫路城の始まりです。その後、羽柴秀吉が三層の小さな山城を築いた。
秀吉は信長の天下統一のため、中国討伐の拠点として天正8年(1580年)から1年がかりで
三層の本格的な天守閣に改築。
19年後の関が原の戦いにより徳川政権が始まると、家康の次女督姫を妻とする池田輝政が
城主に選ばれ、再度改築。
池田輝政が姫路城城主になったのは、徳川政権を脅かすおそれがある西側の諸大名を
けん制するためでありました。
家康は池田輝政に過大とも言えるほどの禄高が与えられました。
督姫との子、次男忠継に備前国28万石、三男忠雄に淡路国6万石を与え、姫路の50万石とあわせ86万石、
しかし実質は100万石をほこる西国大名として徳川幕府の西の要になることが求められた。
この要求に応えるため池田輝政はのべ1400万の人員を動員し8年かけて江戸城にも匹敵するほどの
現在の天守を作り上げた

★明治4年の廃藩置県で無用の長物となり城を売り出した時
 、市内の金物商の神戸清一郎氏が23円50銭で落札後、
権利放棄しました

中村重遠大佐の顕彰碑

姫路城も壊される運命にありました。
★明治7年、歩兵10連隊の設置で、櫓や門などが取り壊され、
天守なども壊されようとしました。
陸軍省第4局代理、中村重遠(なかむらしげとう)大佐が
陸軍卿の山県有朋(やまがたありとも)を動かし、
名古屋城とともに保存されることになりました