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国宝・姫路城  (標高46米の姫山を中心とした平山城  
春の城 秋の城 水ノ門 いろは門 狭間 城の 石垣 千 姫 武 将
夏の城 冬の城 菱の門 大手門 内濠 三国堀 家紋 西の丸 クリーン
国宝=大天守1棟ほか各小天守を含む7棟。
重要文化財=城内の現在建物74棟
国の特別史跡=内曲輪一帯と中曲輪の一部
世界文化遺産=1993年ユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産に登録されました
籠城の設備
天守丸:炊事が出来るように内庭に台所櫓。地階に厠の設備、食料や燃料が貯蓄されていた。
お菊井戸 切腹丸 切腹丸の井戸

お菊=永正年間(1500年頃)城主小寺則職の執権青山鉄山が主家横領の企てを、
青山家の住み込みのお菊探知→元信に知らせ城主の難を救った

鉄山は浦上村宗等の加勢で則職を追放、一時主家を横領した。
村宗等を招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は、家宝の10枚揃いの皿の一枚を隠し、
お菊を攻め殺し井戸に投げ込んだ。
その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえということです。
やがて、元信らが、鉄山一味を滅ぼした。お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内に祀られました。

長壁神社遺跡 姫路城大天守閣の鯱瓦
釘 隠

釘隠
地階から5階まで各階長押(なげし)に493個の六葉(ろくよう)釘隠と152個の饅頭釘隠が取り付けてあり、

最上階(6階)の釘隠は金箔押しの六葉飾り金具打ちです。
桜門橋(さくらもんはし) 平成19年
2008年2月24日(日)撮影
平成20年:2008年4月5日(土)櫻満開→4月9日(水)

幸運をつかんだ戦国武将
池田輝政=1564年尾張国清洲で池田恒興の次男で生まれる〜1613)本能寺の変で長男信忠自刃→池田家の当主になる
先妻=中川清秀の娘
糸姫(利隆を生んだ後、病で実家に戻る。
後妻=徳川家康の次女督姫→忠継・忠雄(ただかつ)を出産 (前夫=北条氏直)

今の姫路城
慶長6年(1601年)から8年かけて池田輝政が建てました。最初に建てたのは赤松則村の次男貞則です。
当時播磨国上郡で勢力を誇っていた父則村は、鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇に加勢し、1,200騎の兵を姫山に山城を築きました。
これが姫路城の始まりです。その後、羽柴秀吉が三層の小さな山城を築いた。

秀吉は信長の天下統一のため、中国討伐の拠点として天正8年(1580年)から1年がかりで三層の本格的な天守閣に改築。
19年後の関が原の戦いにより徳川政権が始まると、家康の次女督姫を妻とする池田輝政が城主に選ばれ、再度改築。
池田輝政が姫路城城主になったのは、徳川政権を脅かすおそれがある西側の諸大名をけん制するためでありました。
家康は池田輝政に過大とも言えるほどの禄高が与えられました。
督姫との子、次男忠継に備前国28万石、三男忠雄に淡路国6万石を与え、姫路の50万石とあわせ86万石、
しかし実質は100万石をほこる西国大名として徳川幕府の西の要になることが求められた。
この要求に応えるため池田輝政はのべ1400万の人員を動員し8年かけて江戸城にも匹敵するほどの現在の天守を作り上げた

明治4年の廃藩置県で無用の長物となり城を売り出した時
 、市内の金物商の神戸清一郎氏が23円50銭で落札後、
権利放棄しました。



中村重遠大佐の顕彰碑

姫路城も壊される運命にありました。
明治7年、歩兵10連隊の設置で、櫓や門などが取り壊され、
天守なども壊されようとしました。
陸軍省第4局代理、中村重遠(なかむらしげとう)大佐が
陸軍卿の山県有朋(やまがたありとも)を動かし、
名古屋城とともに保存されることになりました。

建造物 昭和6年1月19日及び12月14日 国宝保存法に基づき国宝に指定 (82棟)
昭和25年8月29日 文化財保護法に基づき重要文化財に指定。
昭和26年6月9日 上記のうち8棟を同法に基づき国宝に指定。
特別史跡 昭和3年9月20日 史跡名勝天然記念物保存法に基づき史跡に指定。
昭和31年11月26日 文化財保護法に基づき特別史跡に指定。

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