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松原山八正寺

金 堂 八幡大菩薩
忠魂碑(左S23年撮影) お地蔵さん 聖観世菩薩堂
昭和4建立時撮影 昭和4年建立 昭和23年3月建立
右端胴像文の説明
皆倶成仏道=回向文(えこうもん)と呼ばれ、{願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを】という意味。皆が一緒に悟りを得られるようにと願うのです。
=訓読み(ともに) 音読み(グ、ク)

平成25年昼鬼会式記念植樹 平成25年
615年 八正寺妻鹿村に建立  
622年 灘七村の中心地に移る 
633年 広大な社領内に一応の原型できあがる
1239年→1332年米俵・酒〔樽入り)等の豊作物を八正寺にミコシで奉納ケンカ祭りの始まり
      (祭礼日11月7・8日)
安政5年 八正寺 祭神3体となる。
      宮入順序決定(東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村)
明治3年(1870年)神仏分離のため八正寺→松原神社となる。ミコシ=各村輪番制になる。
     以前は7村で3台〔松原・中村:八家・木場:東山・妻鹿・宇佐崎)
明治5年(1872年〕〔太陽暦採用〕
八正寺由諸 松原山八正寺=高野山真言宗谷上多聞院派】本尊薬師として如来尊像が存在する
第45代天皇・聖武天皇(しょうむてんのう)の神亀元年(724年)行基菩薩が開創。
その後、第47代淳仁天皇の天平宝字7年(763年)4月11日勅願(ちょくがん・天皇の祈願)で松原八幡神社の神宮寺として
豊前の国宇佐八幡宮の神霊を勧請(おいでを願った)し、社僧により奉祀させるにいたり、八正寺は刺願別当寺に補せられた。
神仏習合により神官と僧侶を兼ねた社僧が大勢奉仕していた。
明治維新後仏教と神道が分離された(松原八幡宮→松原八幡神社)。
八正寺(松原山八正寺)真言宗高野山谷上多門院の末寺で山号を松原山という。
明治維新前の八正寺は、寺中に霊山院・宝蔵院・光明院・文殊院・宝積院・鎮城院の六院(坊)を有し、
松原八幡神社の神宮寺(別当寺)として社務を執行、社領(寺領)を支配して威勢をふるった。
このほか末寺に松原村内の千蔵院と飾万津清水の東光院があり、一般寺院と同様の仏事や宗門改めの請印などは、
寺中の六院や末寺がそれぞれに檀家を持ってこれを処理した。
明治維新の神仏分離の際には、全国各地の寺社で大混雑が起こったが、八正寺も例外ではなく、
文殊院と鎮城院の住職(社僧)は還俗して神職に、光明院の住職は松原八幡神社の社務を辞して
専ら仏事のみを執り行う僧職に就き、寺中の各院の檀家を併合して松原山八正寺と号し、
当時廃寺となっていた松原村内の千蔵院跡へ一旦移ったが、のち県庁に願い出て、間もなく旧光明院跡に戻り、
その前にある旧薬師堂を本堂とし、
これに旧阿弥陀堂と観音堂を併合して現在に至っている。
なお、宝蔵院と霊山院の二院は幕末までに廃寺となり、明治維新の際はすでに建物も無くなっていた。
松原山八正寺と松原八幡宮の関係
八正寺は松原八幡宮の神宮寺として寺内に宝積院、霊山院、文殊院など六つの塔中寺院(僧坊)を抱え、
松原八幡宮や社領(荘園)の維持管理と祭礼行事の執行がもっとも大切な仕事でした。
★荘園(しょうえん)=公的支配を受けない一定規模以上の私的所有と経営の土地。
初期荘園=資本を持つ中央貴族、大寺社、地方の豪族、は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現
松原山八正寺とは
六院(霊山院・宝蔵院・光明院・文殊院・宝積院・鎮城院)と二棟の建物(神宮寺と松原八幡宮本殿)この八院の総称
★聖武天皇(しょうむてんのう)奈良時代の701年〜756年・724年第45代天皇になる(在位724年〜749年)
  (貴族間の争いや疫病の流行した時代でもあった)
★淳仁天皇(じゅんにんてんのう)733年〜765年(第47代天皇・在位756年〜764年)
★行基(ぎょうき)668年〜749年)
(国に奉仕する仏教から仏教本来の民衆を救う為の仏教へと各地に仏教を広めた民衆の僧)
仏教を広めると共に民衆の協力を得て道・池・溝・港など事業で社会奉仕をしたので行基菩薩と呼ばれた。
天平17年(745年)聖武天皇から大僧正の位に任ぜられる。
★空海=774年(宝亀5年)讃岐国多度郡に生まれる→醍醐天皇より弘法大使の諡号を賜わった
★豊前の国 【福岡県北九州〜大分県北部】
★長史(ちょうり)=八正寺の寺中全体を総括した社僧

参考=歴史を刻む松原荘、灘地区の地域資源、播州屋台記及びふるさと木場など