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応仁の乱(おうにんのらん)(1467年〜1477年)・応仁元年〜文明9年の11年間
室町幕府八代将軍足利義政のときに起きた内乱細川勝元。・山名持豊(出家して山名宗全)らの
有力守護大名が争い、
その後、戦国時代に突入した

応仁の初(1467年・応仁元年)播磨を領していたのは赤松氏でした。社領は千石千貫で境内は東西6丁南北2丁あり
八正寺常光堂と称する建物には赤松円心(赤松則村)の庇護する多数の僧兵を抱えていました。
足利義満の死後、各地の守護大名の力がますます強まり、互いに争うようになった。特に山名持家(宗全)と細川勝元
との勢力争いが激しく、これに8代将軍足利義政の跡継ぎ問題や畠山氏や斬波氏の相続問題がからんで、1467年、
応仁の乱が始まった。東軍の細川勝元と山名持豊を中心とする西軍にわかれ、京都を中心に11年間も続き各地の
守護大名は領地の奪い合いで戦乱は京都から諸国に広がった。赤松氏は山名氏と度々戦い、その兵火が松原神社に
及び建造物や重要な文化財などが殆んどその時鳥有に帰した。後、赤松左京太夫政則が将軍義政に功労を認められ
再び播磨、備前、美間作の三カ国の領主になった。
(この乱の影響で家柄よりも実力本位の戦国時代になる)。
☆文明3年(1471年)赤松政則再興
このとき松原神社を再建竣工式には米二百俵を寄進した。時の氏子は大変喜んで盛大な竣工式
を営み米二百俵をお旅山(八幡神社)までかついで行列の供をした。
☆文明5年(1473年)神輿太鼓→現在の屋台の原型(木場の屋台が最初)。
これが松原八幡神社の現在の屋台の最初と考えられる

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