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神亀元年からのあゆみ 神亀(じんき・724~729年・奈良) |
615年 |
八正寺妻鹿村に建立。祭神応神天皇 |
622年 |
八正寺灘七村の中心地に移る。 |
720年 |
日本最古の放生会は宇佐八幡宮→全国の八幡宮に広まった。
仏教の教え〔殺生戒〕生類保護・殺生禁断の仏教思想=捕らえていた魚・鳥などを
8月15日松原川=放生川などへ解き放つ儀式。
海の幸・山の幸に感謝すると共に五穀豊穣・家内安全交通安全を祈る儀式・神事。 |
神亀元年
(724年) |
八正寺開創(第45代天皇・聖武天皇の神亀元年・行基菩薩によって開創) |
天平1年
(729年) |
僧行基、塩浜を築いた。その後、江戸時代、姫路藩が塩田開発を奨励 |
天平宝字
7年
(763年) |
豊前宇佐から白雲が東方にたなびき、松原の海中に光が生じた。
これを夢に見た国司が、妻鹿の漁師「久津利」という者に命じて網を投入させると、
「宇佐第二垂跡八幡大菩薩」の文字がある一尺余の紫檀の霊木が上がり、
これを妻鹿港の大岩に祀った。
その後、国司は再び霊夢の中で、この浦の海原を白浜となし、
一夜のうちに数千本の松が生える(松原名の由来)
【粟が群生したように→(粟生名の由来)粟生小学校(現白浜小学校)。
その地に宮を建てて奉斎するのがよかろう。
との神託を受け、松原の地に神霊を移したと伝えられています。
(国司=国の行政官として中央から派遣された官吏で祭祀・行政・司法・軍事の全てを司り、
絶大な権限を持った)
4月11日松原八幡神社創祀(第47代天皇・淳仁天皇によって創建)
荘園時代は石清水八幡宮の別宮で、松原別宮と呼ばれていた(平安時代中頃律令制で土地の国有制
→皇族、貴族、寺社による大規模な土地の私有化が進行し荘園制の成立)
松原八幡神社の本格的な造営は、
伏見天皇(第92代)の寄進によって社領を得、後小松天皇(第100代)の
明徳年中(1390~1394年)に本格的な社殿が建立されたようです。
松原八幡神社は、播磨を領としていた赤松氏の勢力下で発展しました.。
4月11日八正寺は松原八幡神社の神宮寺として豊前国宇佐八幡宮の神霊を勧請し、
社僧により奉祀しました。
明治維新後、仏教と神道が分離されるまで神仏習合により神官と僧侶をかねた社僧が大勢奉仕していました。 |
建久4年
(1193年) |
赤松則景播磨守護職となる |
正治1年
(1199年) |
小山朝政播磨守護職となる |
1239年 |
1239年→1332年米俵・酒〔樽入り)等の豊作物を八正寺にミコシで奉納
ケンカ祭りの始まり(祭礼日11月7・8日) |
元弘3年
(1333年) |
赤松則村(円心)播磨で挙兵・(鎌倉幕府滅びる)(1348年楠木正成戦死) |
(1383年) |
米・酒をつめた酒たるで神輿を作る→供物の豊作物と神輿を分離〔たる神輿〕 |
応永3年
(1396年) |
9月・例大祭の執行要領『播州飾磨郡松原山八正寺九月十五日神事軌式亀鏡』
神社主体の神事が神宮寺の社僧を中心に執行されていた(屋台・檀尻は出現していなかった)。 |
嘉吉元年
(1441年) |
嘉吉の乱・室町時代中期の反逆事件 |
応仁1年
(1467年) |
応仁の乱・室町幕府8代将軍足利義政のときにおきた戦争。 |
応仁2年
(1468年) |
赤松左京太夫政則氏は、将軍足利義正に功績があって再興し播磨、備前、美作の三ヶ国を
山名氏から奪回し領主となる。 |
文明3年
(1471年) |
松原八幡神社の社殿修復再建、竣工祭には米二百俵を寄進しました(氏子喜びお旅山まで米俵担いで運ぶ)。 |
文明5年
(1473年) |
赤松左京大夫政則神社修復再建・神輿屋台(現在の屋台原型)出現 |
永禄元年
(1559年) |
赤松左京大夫政則松原神社を立派に再建 |
天正元年
(1573年) |
羽柴秀吉・援助要請(松原八幡神社内で姫路・三木・居残と三つに分かれ意思統
一出来ないことに別所長冶の敗戦兵、怒り七堂伽籃四十八坊灰塵となった)
別所長治1555~1580)播磨守護赤松氏の一族 |
天正12年
(1584年) |
松原八幡神社の僧、快祐が社殿を復興し八正寺六坊を建てるが秀吉が天下平定後、社領を60石に減らす
このとき以来、江戸時代歴代将軍・姫路城主より六十石の朱印状を下知され、明治維新に至っている。
※松原山八正寺寺内の塔中寺院・たっちゅうじいん(霊山院りょうざんいん・宝積院ほうじゃくいん
・文殊院・光明院・鎮城院・宝蔵)
※薬師堂・観音堂 |
元正2年
(1574年) |
106代正親町天皇時代・八正寺霊山坊快祐が鬼会式は八幡宮より出ずと『年中行事掟』 |
天正8年
(1580年) |
三木城滅ぶ(城主・別所長治自刀)。羽柴秀吉、姫路城15代城主となる |
慶長5年
(1600年) |
池田輝政、姫路城城主となる。 |
元和3年
(1617年) |
本多忠政、姫路城主となる |
寛永2年
(1625年) |
塩田開発進む。 |
寛永16年
(1639年) |
木庭神社(松原八幡宮の別宮)三木城主別所長冶の遺腹の子三木久右衛門宗栄が建立 |
(1717年) |
祭礼ルール確立 みこし・たいこ(だんじり)登場 |
(1730年) |
御神幸行列始まる |
(1748年) |
1748年~1750年:寛延一揆・播磨大水=姫路藩の財政ひっ迫。
藩主酒井家に変わる(河合家も前橋から姫路に移る)祭礼日9月14・15日。
屋台に社寺建築の様式を大いに取り入れる〔播州地方独特の型に変わっていく〕。 |
寛延2年
(1749年) |
正月から2月にかけ大規模な百姓一揆(藩主松平朝矩) |
寛延3年
(1750年) |
姫路蕃宇佐崎組村々明細帳(飾東郡宇佐崎村・木場村・八家村・東山村・中村・松原村・妻鹿村
・継村・奥山村・北原村・兼田村・東阿保村・阿成村・下中嶋村
寛延3年姫路蕃酒井氏領・播磨国飾東郡宇佐崎組 中村・宇佐崎村・松原村・・・
中村地区戸数130軒人口805人(明治14年白浜村988戸4,452人・昭和42年中村513世帯2,043人) |
宝暦8年
(1758年) |
八幡宮御神事御式定(神役・神事作法・行列順に関する申し合わせ)灘七村の村役が協議・
この時点で神輿屋台を出していたのは木場村・中村・松原村の三か村に過ぎなかった
(神輿屋台は獅子檀尻や丹鶴より遅かった)
『神事御渡では神輿屋台は古いものを先にする』と決まる(木場・松原・中村の順)
神輿屋台はすべての後方にすること
神輿当番は七か村を東山・八家・木場で一組・宇佐崎・中村で一組・松原・妻鹿で一組の三組に分け
3年に一度の練り番 |
文化・文政
(1804年) |
事業に成功して資産を蓄積する企業家が続出、祭例行事に思い切った寄付をした |
1805年 |
木場村ねじまく使用 |
文化3年
(1806年) |
祭礼日を9月14日・15日に変更(11月7・8日から) |
文化5年
(1808年)
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今日の灘まつりの形態は江戸時代の藩政改革が行われた年からで一揆、
播磨大水で姫路藩の財政はひっ迫していた。
寛延2年、河合家前橋より姫路に移る。河合寸翁は文化5年藩政改革を行う
〔地域の民衆が力を蓄える事を警戒した)。
姫路藩の名家老河合寸翁は大衆の力に気を使い地域の力を分散させるため。
祭礼に興味を示し、村村の屋台を競争させ祭礼を派手に行わせた。
これにより民衆の財力も低下させ地域の大きな力を低下させる目的で
祭礼を大いに奨励、盛大に行うように指導した(祭政一揆として政治的に取り入れた)。
お旅所=お御旅山中腹に移る。
神輿登場:1の丸・2の丸・3の丸として。ヤッサ登場:台尻(ヤッサ)登場 木場邑。
(神輿屋根屋台→現在型の屋台登場) |
弘化元年
(1844年) |
播州で初めて神輿屋根屋台作られる〔松原ヤッサ〕。 |
嘉永4年
(1851年) |
奉納絵馬・祭礼絵馬・ 文政11年(1828年)奉納 |
嘉永5年
(1852年) |
宇佐崎(中ノ丁)屋台新調 |
嘉永7年
(1854年) |
松原(中ノ町)屋台新調・当時は松原西ノ丁と2台の屋台があった。
安政3年(1858年)~明治7年(1874年)の18年間妻鹿村屋台は大小2台。 |
安政3年
(1856年〕 |
松原村の佐々木堂靜が藩主酒井忠顕に進言
神功皇后説採用、伊勢音頭導入:藩主酒井忠顕。
妻鹿ヤッサ2台時代始まる(明治7年まで) |
安政5年 |
八正寺 祭神3体となる。
宮入順序決定(東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村) |
文久元年
(1861年) |
宇佐崎(西ノ丁)屋台新調 |
(1863年) |
東山ヤッサ千成瓢箪紋木で製作 |
(1865年) |
江戸時代末期・21代孝明天皇・夜鬼会式
四柱推命で八正寺を中心に24宿の各村の位置から屋台の宮入順決まる。 |
慶応3年
(1867年) |
10月14日京都二条城で徳川15代将軍慶喜大政奉還宣言 |
慶応4年
(1868年) |
9月8日・明治と改元 |
明治2年
(1869年) |
酒井忠邦、姫路藩知事になる(1853年ペリー来航) |
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