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三木城落城 (城主・別所長冶)1558年〜1580 |
天正8年・1580年1月17日(城主・別所長冶自害)別所長冶は赤松一族 |
天正初め、秀吉の中国征伐の砌、播磨の領主三木城の別所長冶を征めた時、別所長冶氏から度々松原神社へ 援兵を請てきましたで、数度の協議を重ねたが決定を見ず一部は別所、一部は秀吉の姫路、に味方、一部は 白浜の神社に残った。程なく、別所長冶氏は秀吉に降りましたが長冶長冶氏の敗残兵は別所長冶氏を助けなかった 故を以って、松原八幡神社に火を掛けたので建物、社宝の総てを焼かれた。秀吉、三木城攻めのとき毛利氏に再び焼失。 |
秀吉からは味方をしなかった故を以って、社領の千石千貫の総て(六十石に削られる)を取り上げられ神官の 総てを神社より放遂した。 |
☆黒田官兵衛孝高の援助で社僧快裕が復興した。 |
明治初年の神仏分離の時まで松原八幡宮(松原八幡神社)は僧侶が管理していた。 |
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