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松原八幡神社秋季例大祭《灘まつり》の変遷
◆放生会(灘まつり)養老4年720年九州宇佐八幡宮で始まり以後、全国の八幡宮に広まった。

放生会(ほうじょうえ)とは
捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である。
仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。
収穫祭・感謝祭の意味も含めて春又は秋に全国の寺院や八幡社で催される。

◆ケンカ祭り(ケンカ)の始まり 1239年→1332年 米俵・酒〔樽入り)等の豊作物を八正寺にミコシで奉納。
〔先を争う様子がケンカのように見えた(祭礼日11月7・8日)。
◆祭典にかかわる口伝=祭典に係る口伝(赤松政則神社社殿再建=竣工祭に米俵200俵を寄進)
各村参拝の順序は神功皇后三韓御征討当時の順序(八正へ挨拶に来た順)で
東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて
第一に進み、第二番は木場村、第三番八家村、第四妻鹿村、第五松原村、第六宇佐崎村。第七中村伝々。
屋台は三韓御征討の時に用いられし軍船にかたどりたるにて屋台をかくものは赤き布切を頭にいただく。など
百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高麗(こうらい:高句麗)の三国を三韓と呼んでいた。
☆神功皇后(じんぐうこうご)成務40年(170年)~神功69年4月17日(269年6月3日)は、仲哀天皇の皇后。
☆676年、新羅(しらぎ)朝鮮半島統一《都=慶州》
◆1709年御旅所決定  1730年御神幸行列はじまる。
◆文化3年(1806年)祭礼日、9月14、15日に変更(旧11月7、8日)
◆今日の灘まつりの形態は江戸時代の文化5年(1808年)藩政改革が行われた年からで
一揆、播磨大水で姫路藩の財政はひっ迫していた。
寛延2年、河合家前橋より姫路に移る。河合寸翁(かわいすんのう)は文化5年藩政改革を行う。
〔地域の民衆が力を蓄える事を警戒した)。
姫路藩の名家老河合寸翁は大衆の力に気を使い地域の力を分散させるため
祭礼に興味を示し、村村の屋台を競争させ祭礼を派手に行わせた。これにより民衆の財力も低下させ
地域の大きな力を低下させる目的で祭礼を大いに奨励、盛大に行うように指導した
(祭政一揆として政治的に取り入れた)。
文化5年(1808年)神輿登場:1の丸・2の丸・3の丸として。ヤッサ登場:木場邑。
◆祭礼日の変遷
放生会時代:旧暦8月15日から始まり現在の新暦(太陽歴)10月14日、15日今に至る。。
明治5年(1872年〕〔太陽暦採用〕。
明治5年(1871)年までは旧暦:太陰太陽暦 9月14、15日。
明治6年(1872年)新暦:太陽暦へ改暦。。
明治6年(1872年~明治42年までは旧暦に該当する9月14、15日。
明治43年(1910年)新暦の太陽暦10月14日、15日に変更。
◆祭礼様式《基本的》
神輿を中心にその前後を礼服に威儀を正した。
神役人(しんやくにん)たちが社宝、武具を奉持し、 
伶人(音楽担当)たちが管弦の雅楽を奏でながら厳粛に御旅所まで
神幸渡御(しんこうとぎょ)するのが基本な形→さまざまな変還。
初期の放生会時代=捕らえていた魚貝を放生川(松原川)の川口で解き放し
自然の海、川に戻してやる儀式。
◆武家社会の鎌倉時代=流鏑馬行事が御旅所前面馬場で行われる。
◆江戸時代=獅子屋台(壇尻)、神輿屋台を出すようになった→厳粛に行われていた。
神輿かつぎ作法が粗暴になり先を争ったりぶつけ合うようになった。。
615年 八正寺妻鹿村に建立。
622年 灘七村の中心地に移る。
633年 広大な社領内に一応の原型できあがる。
1239年→1332年 米俵・酒〔樽入り)等の豊作物を八正寺にミコシで奉納ケンカ祭りの始まる。
      (祭礼日・旧11月7・8日)
文化5年(1808年)神輿登場:1の丸・2の丸・3の丸として。ヤッサ登場:木場邑。
弘化元年(1844年)播州で初めて神輿屋根屋台作られる〔松原ヤッサ〕。
安政3年(1856年〕神功皇后説採用、伊勢音頭導入:藩主酒井忠顕。
酒井忠顕(さかいただてる)=江戸時代末期の大名。第7代姫路藩藩主。          
 妻鹿ヤッサ2台時代始まる(明治7年まで)。 
安政5年(1858年) 八正寺 祭神3体となる。
      宮入順序決定(東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村)
★安政5年(1858年)福沢諭吉慶應義塾創立:飛越地震(北陸)
明治3年(1870年)神仏分離のため八正寺→松原神社となる。ミコシ=各村輪番制になる。
 以前は7村で3台〔松原・中村:八家・木場:東山・妻鹿・宇佐崎)
明治8年四手に紙を使用〔従来は布〕。
明治43年松原ヤッサに初めて伊達綱使用。
★日本の祭礼のルーツは、インド及びネパール。日本各地の祭礼ルーツは、京都・八坂神社祇園祭である。
八坂神社〔インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王をまつる〕
播州地方の祭ルーツ=八正寺(現松原神社)=灘地区である。
◆祭典にかかわる口伝=祭典に係る口伝(赤松政則神社社殿再建=竣工祭に米俵200俵を寄進)。
各村参拝の順序は神功皇后三韓御征討当時の順序(八正へ挨拶に来た順)で
東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて
第一に進み、第二番は木場村、第三番八家村、第四妻鹿村、第五松原村、第六宇佐崎村。第七中村伝々。
屋台は三韓御征討の時に用いられし軍船にかたどりたるにて屋台をかくものは
赤き布切を頭にいただくなど。

★宮入順序
◆八正寺から各地区の方位〔方位説〕江戸時代末期・四柱推命で八正寺を中心に
 24宿の各村の位置から屋台の宮入順決まる。
◆八正寺へ米、酒などの奉納した順。1239年→1332年 米俵・酒〔樽入り)等の豊作物を
八正寺にミコシで奉納 ケンカ祭りの始まり(祭礼日11月7・8日)。
◆各村参拝の順序は神功皇后三韓御征討当時当地に立ち寄った時の順序(八正寺へ挨拶に来た順)で
 東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて第一に進み、第二番は木場村、第三番八家村、第四妻鹿村
、第五松原村、第六宇佐崎村。第七中村伝々。
676年新羅(しらぎ)朝鮮半島を統一(都:慶州)
◆安政5年 八正寺 祭神3体となる。
◆ 宮入順序決定(東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村
◆大正15年(1926年) 宮入順(宵宮)AM11時30分東山・AM11時30分妻鹿・PM2時木場・PM2時30分
  八家・PM3時松原・PM4時30分宇佐崎・PM5時中村:(東山と妻鹿同時刻 練り番松原)

★五穀=稲・麦・粟・大豆・小豆《古事記》稲・麦・粟稗・豆《日本書紀)

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