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 禊の浜辺を守り続ける
 (参考:神戸新聞HP)  姫路の海人  浜風リポート   神戸新聞 2003年8月26日
松原地区の総代を26年間務めた会社社長 田中 康夫(たなか やすお)さん(84才)
禊ぎの浜辺守り続ける。

「神に近づいていく感覚です」。のぼりを持った裸の男たちが、しぶきを上げて海に駆け込む「塩かきの儗」。
10月の」灘祭り本宮の朝、その年に神輿を練る者がする禊だ。
1972年(昭和47年)から26年間松原地区の総代を務めた田中康夫は、海と聞くと7年に一度感じた水の冷たさを思い出す。
「今年は練番なんだという気持ちがこみ上がるんです」。引退して5年。体に染みたその感触が消えることはない。

現在、白浜海水浴場でしている塩かきは、古くは松原八幡神社(姫路市白浜町))前にあった
入り江でやっていたといわれる。
田中の自宅は神社のすぐそば。「家から裸で泳ぎに出ていた」。宮入り前に一度屋台を鳥居の前の南に担ぎ出すのは、
潮風で禊ぎをしていた名残だ。

入り江が消えたのは、金融恐怖直後の1929年(昭和4年)。村長が地元救済の公共事業で埋め立てた。
松原地区は、明治期から、浜沿いの塩田にあった澪(みお)筋(船の通り道)に、汐かきの場を移していた。
堤防を、締め込み姿の男衆が行く光景は、遠くからでもよく見えたという。
 
 「お旅山から眺めると、戦前の白浜の集落は鉄砲の形に似ていました」。
山陽電車(大正12年8月19日開通)の北は水田、南には塩田が広がり、松原・中村・宇佐崎の三地区が、その間に細長く延びていた。
【生活に自然が溶け込んでいました】  

田中が白浜の転機と考えるのは、国が塩田を買い上げて兵器工場の建設を始めた1943年(昭和18年)だ。
【上陸用襲艇を作るということだった】。物資輸送のため、線路が御着駅から現灘中学校付近まで延び、
岸には荷揚げ場ができた。

「海と縁が切れてしまった」。遠浅の浜は船の着岸のため深められ、海藻がなくなって小魚の姿が消えた。
竹につけた糸に貝をぶら下げて釣りをする子どもがいなくなった。
地域を一変させた工場は完成することなく、日本は敗戦した。

 当時、なぜ建設に反対しなかった?「国に抵抗できる時代ではなかった」。
赤紙を受け取った男たちは、八幡神社で武運長久を祈り、次々と白浜駅から戦場に旅立った。

戦後、練番が巡ってくるたびに、浜沿いの埋め立て地は増えていった。しばらく海岸の先でしていた塩かきも、
1974年から海水浴場に移った。 

「塩かきができる最後の場所を残したい」。地域の活性化を考え、海岸への企業進出に
自治会長として判を押したこともある。
しかし祭りをだれよりも愛する者として、田中は今、砂浜を守る《楯》になろうとしている。【敬称略】 
 

【灘祭り】10月14,15日にある松原八幡神社の秋季例祭。神輿を荒々しくぶつけ合うことから「けんか祭り」とも呼ばれ、
勇壮豪華な様子は、全国的に知られている。
「汐(塩)かき」は15日早朝。家人から練り子の無事を祈ってまかれる塩と異なり、神の載った神輿を担ぐ前に、
身を清める意味がある。

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