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地誌「播磨鏡」、「峯相記」によると豊前宇佐から白雲が東方にたなびき、 松原の海中に光が生じた。 これを夢に見た国司が、妻鹿の漁師「久津利」という者に命じて網を投入させると、 「宇佐八幡大菩薩」の文字がある紫檀の霊木が上がり、 これを妻鹿の北山に造営した仮殿に祀ったとあります。 その後、国司は再び霊夢の中で、この浦の海原を白浜となし、 一夜のうちに数千本の松が生える 【粟が群生したように→粟生小学校(現白浜小学校)名の由来】。 その地に宮を建てて奉斎するのがよかろう。との神託を受け、松原の地に神霊を移したと伝えられています。 (国司=国の行政官として中央から派遣された官吏で祭祀・行政・司法・軍事の全てを司り、 絶大な権限を持った) 松原八幡神社の本格的な造営は、伏見天皇(第92代)の寄進によって社領を得、 後小松天皇(第100代)の明徳年中(1390〜1394年)に 本格的な社殿が建立されたようです。 松原八幡神社は、播磨を領としていた赤松氏の勢力下で発展しました.。 |
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松原八幡宮(明治の神仏分離から松原八幡神社) 明治元年(慶応4年)神仏分離によって神宮寺として八正寺が分離、社僧のいなくなった。 新体質の松原八幡宮が発足しました (実質的には明治3年10月)。松原八幡宮の社務を執行したのは神田豊斎と鎮城速見さんの二人の神主です。 この二人の神主はいずれも旧八正寺の社僧が還俗したもので、神田豊斎は文殊院、 鎮城速見は鎮城院の元住職だった人です。 職掌は神田さんが嗣官(宮司)、鎮城さんが嗣掌(禰宜)でしたが当時の世情などから永続きはせず、 過渡期の一時的なつなぎの役割でした。 明治6年7月23日飾磨県から松原八幡宮嗣官を命じられた亀山雲平さんで、以後、 このお方が松原八幡宮の名声を高めて行きました。 亀山雲平さんは旧姫路藩の藩士で、儒学を修めて節宇と号し、藩の大目付や藩校好古堂の教授を務めて、 姫路藩中でも有数の学歴者として知られたお方でした。 松原八幡宮着任後、まず私塾『久敬舎』を興し、明治17年に『観海講堂』を開いて地元及び近辺の子弟に 学問を教授し、明冶22年病のため当地に没する。 この間、地元の指導者層に大きな影響を与えました、 今でも多くの人たちに慕われています。 亀山雲平顕彰碑は大正3年建立・昭和63年神社西より現位置に移築。 |
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亀山雲平顕彰碑 | 観海講堂旧跡 | |||||||||
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