天の岩屋戸の変(正面:南)
須佐之男命のご暴状に怒った天照大神が、
天の岩戸に籠もる→天下は全て真暗→八萬の天神達が
安河原に集まり騒ぐ→ついに天照大神は天の岩戸よりお出まし→世は再び明るくなった
天照大神(あまてらすおおかみ)=日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で
太陽の神様であり高天原(たかまかはら)の主宰神です
天照大神は現在伊勢神宮に祭られています(イザナギの神とアザナミ神から生まれる)。

須佐之男命(素戔鳴尊・すさのおのみこと)=伊邪那岐神の三貴子といわれた神のうちの一人
姉である天照大神に挨拶に行きました。そこで岩屋戸事件を起こし高天原から追放される。


天照大神
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)のひとつとされる。
「古事記」においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)
「日本書紀」においては天照大神と表記される。
女神であるが、実は男神だったという説もあります。
天照大神が邪馬台国の女王卑弥呼だった説もあります。

楠木正成(裏正面:北)
忠臣・楠木正成は、柔弱な長袖連中のため、足利尊氏を兵庫浜にて邀撃すると伝う不利な戦いに
望まなければならなくなった。
出陣にあたり正成は、桜井駅に息子・正行を呼び、形見の短刀を手渡し、今生の別れをする。

桜井駅
(奈良県の西国街道沿いで西に湊川・南に交野・四条畷・南に河内に行ける分岐点
=延元元年(1336年)九州から大軍を率いて入洛してくる足利尊氏を討つべきで湊川に向かう
楠木正成は嫡子(ちゃくし)に訓戒を与えて河内に帰らせた父子別れの場所

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。
鎌倉幕府からは悪党とよばれていた。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏反抗後新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤王をつらぬく。
足利尊氏の軍と戦い湊川で自害。
明治以降「大楠公」と称される。

村上義光(むらかみよしてる)=村上彦四郎義光);西
信濃源氏の一族で元弘の乱に護良親王に従う
護良親王従者と共に、山伏姿に身をやつし、紀州から熊野を経て吉野に来た時、
芋瀬の豪族は宮を見逃そうと思ったが、後日、鎌倉の咎めを恐れ一計を案じ、錦旗を贈った。
一行より遅れた彦四郎義光、通りかかりに下僕の持つ旗を見れば、正しく錦旗。義光怒り、
下郎持ちたる錦旗を取り戻し、大の男を7間投げつけやっつけた。
※元弘の乱=後醍醐天皇は貴族たちと鎌倉幕府をつぶす計画が鎌倉幕府にもれ京都を
三種の神器を持って笠置山(奈良県)に脱出。
村上義光

鎌倉時代後期の武将。通称、彦四郎。大塔宮御良親王の忠臣として知られる。

元弘の変の後南都の般若寺から熊野へ逃げる御良親王に従う。
道中,敵方の土豪妹瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞う。その際、芋瀬庄司は
「幕府へ面子を立てるため、通すかわりに名のある臣を一人二人寄こせ」と返答してきた。
赤松則祐が親王の御為と名乗り出る。「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、
これこそが臣下の道。
殿下のために、この則祐、敵の手に渡ってもかまわない」。
しかし平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な
武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末
逃げ延びたことにすれば妹瀬庄司の立場も守れる。
と提案。これを聞き入れて、大事な錦の御旗を妹瀬庄司に下して、難所を乗り越えた。
遅れて義光も妹瀬庄司に出くわすが、そこには錦の院旗が翻っていた。
義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを」
と敵方に奪われた錦の御旗を取り返す。

佐久間玄蕃:東
天文23年(1554年)尾張国に生まれる。

天正11年(1583年)賤ヶ岳(しずがだけ)合戦に於いて柴田勝家方の猛将・佐久間盛政は、
右手に鉄棒を引っさげ敵陣に躍り込み、群がり来る敵兵を薙ぎ倒し、秀吉本陣目指し、
一参に突き進む。
※佐久間盛政=父・久右衛門盛次・母柴田勝家の妹
織田信長に仕え、加賀一向一揆をおさめ加賀守護となった。
信長の武将として数々の戦功をあげるなど武名高かった。