高蘭掛 合戦図:赤松政則、黒田職隆・孝隆、妻鹿孫三郎、母里太兵衛友信

平成17年(2005年)10月1日撮影

場面=赤松正則・黒田職隆、孝隆・妻鹿孫三郎・母里太兵衛友信

平成20年(2008年)9月28日(日)撮影

神功皇后平産の場(前) 久津里(くつり)後
妻鹿孫三郎の合戦図(左肩) 黒田官兵衛初陣(右肩)

妻鹿孫三郎長宗
長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、
その功によって妻鹿地方を領有するようになり、
ここ功山に城を築いたといわれています。
なお職隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さあん」と呼ばれ、親しまれています。、
黒田官兵衛
天正8年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。
これに対し黒田官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、
自らの居城である姫路城を秀吉に譲り功山城に移りました。
母里太兵衛友信(もりとものぶ)安土桃山時代から江戸時代の戦国武将
父=播磨妻鹿の国人曽我一信
母里=島根県安来市あたりの地名とされています。

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